◆1961年生まれの…エー何才でしたっけ?(笑)身長175cmで、体重80kg以上という往年の「渡辺徹」的体型(笑)
◆小学3年で「選挙開票速報」が好きになる→異様な幼少期(笑)→以降「翌日開票」の日は、学校をズル休み。(笑)いまだに「開票速報」が、放送番組の中で一番好きです。という変り者。
◆小学5年の頃から、ラジオ音楽チャートに興味を持ち、洋楽・邦楽問わずノートに記録し始める。邦楽はQR文化放送で、佐藤やすしアナが担当していた「全国歌謡ベストテン」(電話・はがきリクエスト・レコード売り上げ・ベストテン選定委員会の4部門を当時珍しいコンピューターで集計し、総合ベスト30を発表)。洋楽はみのもんたアナと高橋千夜子アナが担当していた『オールジャパンポップ20』(あの「みのもんた」氏が局アナ時代にやっていた、高橋アナとの艶トークと、総合得点まで発表するランキングのシビアさが、渾然一体と融合していた画期的な‐笑‐洋楽チャート番組)。洋・邦ミックスは、久米宏アナと小島一慶アナが担当していた「TBS今週のベスト10」(歌謡曲・久米アナとポップス・小島アナが、順位のパート→ベスト3・4〜6位・7〜10位・11〜20位→ごとに、サイコロで対決して、勝ったほうのジャンルの曲が多くオンエアーされる、面白いシステムのチャート番組)などが、チャート記録の草創期の番組。
◆中学から大学にかけて、全国のラジオチャート番組を遠距離受信で流浪。北はHBC北海道放送から、南は福岡・RKB毎日放送まで、日本中のラジオ・チャート番組を記録し参加しまくる。
◆このジプシーリスナー経験の果てに、全国民放AM局発行の全ての受信確認証(ベリカード)を所有。全国民放FM局の受信確認証は、26枚所有しています。
◆長年のチャート番組の記録を通じて、聴いてきた総曲数は、洋邦合わせて延べ10000曲を超えます。「山口百恵」とか「中森明菜」という名前は、1000回以上ノートやレポート用紙に書いている勘定。また洋楽はタイトル・アーティスト名を「原題」て表記しないと気が済まない癖有り。これも長年のチャート記録の習性か。(笑)
◆テレビ番組の録画テープは20年間以上で、保存確定が約500本。「タイトルバック」(テレビ番組の冒頭で、テーマ音楽と共に、番組名・配役やスタッフの名前が紹介される映像の部分。また番組ラストで、配役やスタッフの名前を、字幕が流れる様に紹介する「エンドロール」も、テーマ音楽が同時に放送されていれば「タイトルバック」と解され、そのテレビ番組を、美しく象徴的に表現する映像の部分で「テーマ音楽」が最も効果的に表現される。)も、約1000作品録画、その内330作品をデジタル化して保存し続けています。
◆1991年茨城県北茨城市から長野県長野市に移り、FM長野リスナーとして『チャート★ドランカー』というラジオネームだけを、一貫して使用し続けています。毎月入手している、FM長野タイムテーブルは、既に150枚を超えました。
◆私が愛する理想のラジオ番組とは、まず一曲一曲の音楽を大切にする番組。そして、災害等の緊急報道に、きちんと対応できる番組に尽きます。
◆未だにラジオチャート番組のランキング・シートも、毎週コレクションしており、現在も多数のテレビ・ラジオ番組の録画・録音・記録ノートや放送に関する文献・データを、収集保存し続けている『放送資料コレクター』でもあります。
◆職業は、小さな会社の非常勤監査役。(行政書士資格も有)私の人生の信条は、ラジオ・テレビに囲まれた「シンプル&スローライフ」なのです。
◆私の詳しいラジオ・リスナー歴については、この後の『私が愛したラジオDJ達』に記してありますので、ぜひお読みください。
◆チャート★ドランカー 私が愛したラジオDJ達
私は、20年以上全国のラジオを渡り歩き、数多くの番組を聴き続け、そして参加してきました。しかし振り返ると、常にリスナーに対して誠実で、独創的であったラジオ番組は、ほんのひと欠片だけでした。その素晴らしいラジオ番組を作り、そして支えた本物のDJ達…。20年以上ラジオを聴き続けた、チャート★ドランカーが愛した本物のDJは、現在まで次のわずか9人だけです。
■HBC北海道放送 Mr.デーブマン
『ベスト10北海道』のパーソナリティ「Mr.デーブマン」(本名:高田文之)氏は、私にチャート番組の奥深さを教えてくれた「師匠」です。史上最強のヒットチャート番組は、月→金まで連日16時から放送。全道レコード売上げ・有線放送・番組への葉書リクエストを毎日独自集計。そのトータルポイントに電話リクエストを30分おきに中間集計してポイント加減するなど、徹底したデータ主義で番組は構成。1位オンエアー曲が、直後発表する「最終ランキング」で逆転され2位に落ちる事もあるほとシビアなチャート番組です。部門別順位やポイントは全て放送で公開し、毎日の「最終ランキング」は集計して、土曜日に別番組で「週間ランキング」を発表。日曜には、洋楽ベスト20、年末には「年間ランキング」も発表します。この凄いチャート番組をMr.デーブマンは、連日余裕でこなしていきます。HBC社員アナ以上の力量があったMr.デーブマンは、トークの切れもよく人柄も温厚。秋から翌春まで日没が早い期間、東日本全域で聴取可能の為、道外リスナーも多く、当時毎日放送されるデータをひたすら記録するヘヴィ・リスナーの集まり「資料室」に、私も茨城から中学・高校時代、ラジオネーム「関東地区中央資料室」として参加していました。茨城で受信できなかったデータは問い合わせると、丁寧に教えてくれ、その後特別に週間ランキング(キューシート)を毎週送って頂き大変お世話になりました。これらは、貴重な放送資料として大切に保存しています。
■IBC岩手放送 大塚富夫アナウンサー
ひとつの県内で20店舗以上のレコード売上げを独自集計し、毎週邦楽60位まで発表する『IBCトップ40』は、名実共に東北最大のヒットチャート番組です。私が聴いていた頃は、日曜午後4時間放送していました。これだけのチャート・データを放送しながら、極めてリスナーからの葉書投稿を重視し、全てのオンエアー曲のイントロに、リスナーの葉書からの詩やメッセージを読みながら繋いでいく、独自の曲紹介方式を採用。恋愛・悩みの葉書コーナーなど、番組全体がある種のストーリー性を持って、ラストの1位発表まで展開していく、全国的にもオリジナリティの極めて高いヒットチャート番組でした。大塚富夫アナは、千輝順子アナや戸田信子アナとともに10年以上この番組を担当し、アナウンサーでは、日本で五指にはいる朗読能力と、瞬発のトーク・センスで、このストーリーを作り上げて来ました。私は80年代後半、チャートデータとお笑いのパート「ベスト3予想人コーナー」で、ラジオネーム「茨城IBCトップ40資料室」として、2年近く没ナシで、大塚アナに読んでいただくなど、大変かわいがっていただきました。独創的で素晴らしい『IBCトップ40』の録音テープは、大塚・戸田両アナのサイン色紙と共に、大切な放送資料として多数保管し続けています。
■RFCラジオ福島 鏡田辰也アナウンサー
長く茨城で生活してましたが、福島県境に近い街だったので、子供の頃からの、地元ラジオ局といえば『RFCラジオ福島』でした。東北唯一のAMラジオ単営局であるRFCは、独特なカラーがあり、今でも「昼の希望音楽会」のテーマ音楽や「皆様お聴きの放送は、ラジオ福島の放送です。RFC。」という不可思議な(笑)ステーション・コールを聴くと、強い郷愁を感じます。1994年に社員寮で、女子アナの刺殺事件が起き、局のイメージは大きくダウンしました。他のアナも転籍が相次ぎましたが、看板の「鏡田辰也アナウンサー」は、RFCに残り、持前の明るさと優れた番組制作能力で、RFCを建て直しました。多様化する音楽嗜好を的確に反映した、新世紀のチャート番組の試金石と高く評価する「RFCロックトーナメント」や「音楽の快人〜RFCポピュラーTOP20」など、笑い重視の生ワイド担当とは違った、音楽番組制作の才能は高く評価できます。実は長野市内で、高性能のラジオならば、夜間RFC会津若松中継局の電波が受信可能です。ラジオネーム「温泉町のスナフキン」として「音楽の快人」時代、番組に参加してました。人柄も温厚な鏡田アナ、長野から参加というだけて感激され、グッズなども送っていただきました。私のラジオの原点である、RFCラジオ福島は、タイムテーブルなどの放送資料と語りつくせぬ思い出を所有。そして…鏡田辰也アナ自身が、今RFCの宝物です。
■FMぐんま 山崎寛代アナウンサー
私にとってのFMラジオのイメージは「FM東京」時代に培ってきました。今でも全ての世代に、良質な音楽を提供する事こそ、FMラジオ局の生命線だと信じています。1985年「FMぐんま」が開局した時、10素子アンテナで初めて聴く、県域民放FMに夢中になりました。自社制作も少なかった開局当時、平日毎日22時から30分間放送の「群ゼミ・サウンドブレイク」は、初めて県域民放FM放送の楽しさを教えてくれた番組でした。地元予備校英語講師の新井康夫氏とデビューホヤホヤの山崎寛代アナとの掛け合い…。それは英語DJであり、まるで漫才であり、そして葉書重視のリスナー参加番組である、従来にない不思議なFM番組でした。「FMぐんまニュースは高校野球の結果だけしか流さない」とか相当な事を言う新井氏を、明るく笑い飛ばす山崎寛代アナは、とても魅力があり、人気者になりました。今AMがない群馬県唯一の県域ラジオ局として、FMぐんまを定着させる基礎を作ったのは、山崎寛代アナと言っても過言ではありません。私は山崎寛代アナに恋していたので(笑)特に番組参加はしませんでしたが、当時のFMぐんま録音テープは、貴重な放送資料録音です。山崎寛代アナは、その後退社してフリーになり、なんとTVワイドショーのレポーターとして活躍されました。現在出世して(笑)芸能コメンテーターとなり、全国ネットのワイドショーに出演し続けています。
■FM長野 山崎詠子アナウンサー
アナウンサーにとって、声質は重要なファクターです。FM長野を聴いていて、山崎詠子アナの母性を包含した様な、魅力のあるボイスが、私は大好きでした。山崎アナ自身が好きだったロック音楽だけではありません。DJと共に制作も担当していた持ち番組“Good Day Cruisin’”を聴いていくと理解できた、ジャンルを問わない、山崎アナの音楽感性の深さは、地元局アナの中で文句なくトップでした。リクエストに答える形でも…。サイレント・リスナーの聴取動向を考え、単純な曲調のイメージだけでなくさらに深く、まるで楽譜まで見通すかの様な選曲の配列を、さらっと自然体で決める事が出来た、全国的にも数少ない音楽感性を持つ局アナのひとりが、山崎詠子アナだったのです。そして山崎アナのリクエスト音楽を通して、リスナーと向き合う姿勢は、常に誠実で優しさにあふれていました。音楽に対する優れた感性と、リスナーに対する変質のない誠実さを有していた、山崎詠子アナこそ、FM長野の放送全体を、美しく象徴していたのだと私は信じていました。しかし…山崎詠子アナは、1997年私がちょっとの間長野を離れ、福島に行っていた間に、寿退社してしまいました。今でも残念でなりません。“Good Day Cruisin’”の数多くの録音テープは、山崎詠子アナの自筆でいただいた絵葉書と共に、大切な放送資料として保存しています。
■TOKYO FM DJ 赤坂泰彦
赤坂泰彦が本物のDJだと判ったのは、1993年7月12日の事です。北海道・奥尻島が津波で壊滅的な被害を受けた、北海道南西沖地震の時、NHKの大津波警報より早く、まだ1年目のミリオン・ナイツを生放送していた東京のスタジオで、DJ赤坂はスタジオ壁に掲示してある、非常用アナウンス原稿を、全国に読み上げていました。音楽ラジオ放送のために生まれてきた、DJ赤坂泰彦は、ベテランアナでも難しい、高度な危機管理能力も有していました。音楽の知識を語るDJはいても、愚直なまでの音楽への愛情に裏付けられた、音楽の理解を語る放送人は、DJ赤坂泰彦だけです。それ故、1997年9月30日、ミリオン・ナイツ最終回ラストのあの涙のメッセージは、絶対忘れる事が出来ず、後発番組編成の推移を見ても、あの時赤坂を切ってまで進む道だったのか、今でも強い疑問を持ち続けています。めったにやらない事ですが、ミリオン・ナイツ終了後、私は16ページに渡る励ましの手紙を、TFM経由でDJ赤坂宛て送りました。その後、FM長野開局10周年記念番組にやってきたDJ赤坂に、リクエストFAXを送って、僅か30分で単独採用。さらに“THIS IS THE RADIO”でも採用され、計2回「チャート★ドランカー」というラジオネームをDJ赤坂にコールしていただきました。これらのDJ赤坂の録音テープは、貴重な放送資料として保存しています。
■RSK山陽放送 滝沢忠孝アナウンサー
岡山のRSKラジオは、中四国の瀬戸内海沿岸に広く届きますが、音楽番組に力を入れる伝統があり、特に全国的にも珍しい、日曜深夜の放送休止時刻前の生放送ワイド“SUNDAY BEST”は、1973年から29年間放送していた、人気洋楽番組です。私が聴いていた80年代後半は、滝沢忠孝アナウンサーと学生アシスタントで、その後KSB瀬戸内海放送のアナウンサーとなった森田恵子女史の時代でした。洋楽番組でしたが、サンベス・LMスタジオのコーナーでは、地元アマチュアバンドを取り上げたり、映画紹介のサンベス・シアターなど、地元スポンサーがしっかりついた個性的なコーナーがありました。私は「サンベス・ベスト10」のコーナーで、リクエスト葉書を紹介しながら、独特の抑揚で、洋楽ベスト20をカウントダウンDJする滝沢アナが大好きでした。番組ではリスナーにランキングを「サンベス・ノート」として記録する事を勧め、その記録が年末一度だけ放送休止せず、朝5時まで終夜放送する「サンベス・オールナイト」で発表される年間チャート予想の獲得ポイント計算に繋がるため、沢山のリスナーがノートをつけ、それが洋楽の普及にもつながりました。サンベスの様な洋楽番組は、全国的にも類例を知りません。私の良き思い出の欠片「サンベス・ノート」…。サンベスの録音テープも、放送資料として保存し続けています。
■RKB毎日放送 林幹雄アナウンサー
日本一リスナーに対して誠実な、尊敬できるアナウンサーと言っても過言ではありません。1974年から17年間、毎週日曜昼12時10分から5時まで、北部九州のヒット曲50曲を完全オンエアーする「RKBベスト歌謡50」を担当してきた林幹雄アナは、九州を代表する名アナウンサーです。とにかく50位から順に、1曲ずつリクエスト葉書を紹介しながら、全ての曲をオンエアーしていきます。ベスト10は、フルコーラスかけ、さらに、年末には年間ランキングを100曲。100回ごとの記念では、特番を1週間組み、第1回からの総トータル500位から1位まで、全曲オンエアーする「RKBベスト歌謡500」も放送します。この凄まじいヒットチャート番組を、持ち前の美声とリスナーに対する誠実さで、林幹雄アナお一人が17年間全て生放送してきました。私は、福岡の友人から毎週のランキング記録のコピーや、番組の録音テープを送ってもらい、夕方から可能になる直接受信をして聴き、さらにRKBから、一ヵ月の順位が全て記載してある月刊の「ランキングニュース」を頂いていました。林幹雄アナの「RKBベスト歌謡50」を毎週全部聴く事ができた、北部九州リスナーの方は、本当に幸せだったと思います。友人の記録コピーや、RKBから頂いたランキングニュースは、大切な放送資料として保存しています。
■KBC九州朝日放送 沢田幸二アナウンサー
時報明けのオープニングが好きでした。“Return Of The Dragon”の曲にのせて、沢田幸二アナがその日の出来事をマシンガン・トークで毒舌する、あのセンスのいいオープニングは忘れる事ができません。KBCラジオ平日夜の生ワイド「PAO〜N・ぼくらラジオ異星人」は、沢田幸二アナの独壇場というべき超人気番組でした。番組には、非常にレベルの高い地元現役大学生が、スタッフやアシスタントで制作に参加。特にラビット弥七こと浦山くんは、九州の高田文夫と言っても決して過言ではないトークセンスを持ってました。当時の沢田アナは、普段少しシャイな感じですが、一旦スイッチがはいると1分200ワードと公称していた(笑)毒舌が生放送で炸裂します。沢田黄門と弥七が福岡の高校の校門を叩いて回る「キャンパス漫遊記」や、相当強烈な替え歌投稿テープをランキング形式で放送してしまう「リクエスト・わけありベスト10」など、私も相当ラジオ番組を聴いてきましたが、これほど斬新な発想のコーナーは、PAO〜Nでしか聴けませんでした。沢田幸二アナは、今もKBCラジオの看板アナとして活躍、キャンパススタッフからは、中島浩二氏を始めとする地元九州のDJ・放送スタッフを輩出しました。PAO〜Nは、多くの録音テープを所有。そして、沢田アナの生サイン入り番組本「おだまり!2」も、放送資料として保存しています。
